2005年3月20日に福岡県西方沖で発生した地震被害調査速報

−2005年3月25日,4月4,5日実施−

初版(2005年4月12日)
第3版(2005年4月14日, 4月25日修正)
第4版(2005年4月26日)

調査概要 福岡市中心部 玄界島(西区) その他

調査概要

 平成17年3月20日10時53分,福岡県西方沖を震源とするマグニチュード7.0の地震が発生し,福岡県中央区,東区,前原市および佐賀県みやき町で震度6弱を記録した.また福岡県西区の玄界島では大きな被害が生じ,4月12日現在もまだ全島避難状態にある.この地震は正式には命名されてはいないようであるが,福岡県西方沖地震と呼ばれることが多い.

 3月25日午前6時過ぎの電車にて10時過ぎに福岡入りし,主に玄界島を中心に調査を実施した.また市内中心部についても中央区,早良区を調査した.調査メンバーは,本田利器(京都大学防災研究所),高橋良和(京都大学都市社会工学専攻)及び小野祐輔(京都大学都市社会工学専攻)である.
 また先の調査結果を受け,4月4日大濠公園以東の旧堀地域を重点的に調査し,5日に再び玄界島および福岡県立図書館にて資料収集を行った.調査メンバーは,清野純史(京都大学都市社会工学専攻),澤田純男(京都大学防災研究所),高橋良和(京都大学都市社会工学専攻)及び小野祐輔(京都大学都市社会工学専攻)である.
 後に示す古地形と被害との関連性を九州工業大学の幸左先生のデータを元に再検証し,4月21日,22日に高橋良和,小野祐輔(京都大学都市社会工学専攻)と宇野技官(九州工業大学)と大濠公園以東の全戸調査を実施した.


 3月25日に調査したルートを上図の赤線で示す(画像をクリックすると大きな画像が現れます).左側が福岡市中央部,右側が玄界島である.地震動そのものについての報告は他に譲るものとし,構造被害を中心とした速報として報告する.また,小野先生がまとめられた調査報告は地震被害調査Virtual Clearing House(第1次,第2次報告が福岡県西方沖地震のところ)にあります.

福岡市中心部

 福岡市中心部では福岡ビルの窓ガラス崩落などの被害が大きく報道されたが,3月25日の調査の印象では,被害が局所的であり,海岸部を除けば,特に大濠公園東の狭い範囲に被害を受けた構造物が多いような印象があった(下左:福岡ビル,下中央:赤坂付近,下右:大名一丁目).

 大濠公園は福岡城跡であり,現在も北側に堀が残っている.被害集中地域が堀の延長上にあるように思われた.しかも,堀の延長上というよりは,延長上のやや南側に被害が集中しているように見受けられた.土木学会等の調査によると,福岡城東にある警固断層より東側で急に基盤が深くなっており,このことが被害が局所的に発生した原因であると予想されている.土木学会などにより報告されているようにこの基盤深さの急変による影響は当然考えられ,断層に平行した被害の帯は説明できると考えられるが,ところどころ断層直交上に帯のような被害域が確認できる.九州工業大学の幸左先生らの調査によると,断層東側に沿って被害の分布は明瞭に見ることができるものの,大濠公園の東側および国体道路沿いにも被害が分布していることが分かる(左下図は福岡県西方沖地震による建物の被害調査に関する調査報告結果 図1を抜粋し,黄色の線を加筆.右下図は4月21日,22日の全戸調査結果.).

(上図注:黒線内を調査.赤>緑の順で被害の程度を表す.茶色は地盤沈下測定位置)



この原因のひとつとして,小野先生,本田先生らとともに福岡城の堀跡(旧地形)に着目した.旧地形(古地図)と被害との関連性については,2001年芸予地震被害調査報告の道路・橋梁被害を担当した際,JR高架橋の三原付近における被害箇所が昭和初期の古地図より埋立地および水田跡であったところと対応していることを指摘している.

3月26日に小野先生より福岡県立図書館のホームページより福岡市の古地図を参照でき,明治初期までは堀が福岡城を取り囲み,かつ那珂川まで堀が続いていることが報告された(下図は明治23年の福岡県明細図,福岡県立図書館より特別利用承認済(17福図第25号)).


 4月の調査において,より詳細な福岡城堀位置に関する情報を収集し,古地図より江戸時代の堀,河川,海岸線,道路を抽出し,また地質調査所の5万分の1地質図より断層線(伏在断層)を,国土地理院1万分の1地形図上にプロットしたものが下図(右:拡大図)である.

(注釈)濃い青:現在の水域(大濠,堀,河川),薄い青:江戸時代の水域(堀,海,河川),茶:江戸時代の道路(一部のみ描写),点線:伏在断層線(産総研・地質調査総合センター発行の地質図より).

堀の境界については石垣跡などが発掘されている場合は特定でき,大名地区の中堀の南側については石垣跡が出土している.北側は石垣跡が発掘されていないようであるが,「福岡市埋蔵文化財調査報告書第293集」にある肥前堀の古地図(上左図)によると,北側は土手となっており,中堀は土手からすぐに道が走っている.そこでここでは土手部も堀の一部として表すこととした.また明治23年の地図などによると中堀の北側は途中から土手部が大きくなっており(上右図),それも反映することとした.

 作成した図をみると,現在の大名には堀(中堀・肥前堀)が走っていることが分かる.福岡県教育委員会による埋蔵文化財調査によると,明治・大正時代に那珂川側から順に埋め立てられ,現在に至っている.現在の福岡市の道路は江戸時代の道路の様子をよく残しており,当時の堀跡に1本の道路が走っていることになる.旧堀上にある道路を中心に南北の通りを調査したところ,旧堀上の建物や道路の被害が大きいことを確認した.

写真:旧堀境界上にある古い建物は大きく損傷している.また旧堀上で赤色危険度判定された旧家は内部は土壁等は大きく損傷しているものの,構造体としては健全であった(所有者によると松杭が打たれているとのことである).

写真:旧堀上にある道路周辺の地盤変状

写真:旧堀境界の石垣跡(右が堀側),古いレンガ壁跡,境界堀側の建物被害

 旧堀上にある道路に平行に走る道路は,ところどころ被害はあるものの,これほど集中しては発生していなかった.明らかに旧堀の存在が構造・地盤被害に影響を与えていることが分かる.

 この旧河川は大名一丁目で大きく蛇行し南側および西側に走っているが,江戸時代の「福岡城下町と博多近隣図(九州大学文学部蔵)」によると,大名一丁目付近で3本に分岐し,一本は北側の道に沿って走っている.この河川は他の古地図からは見受けられないので定かではないものの,大名一丁目で一階の柱に大きな損傷を受けたビルはこの川沿いにあった可能性が高い.

左図:「福岡城下町と博多近隣図」拡大図 (福岡県立図書館資料特別利用承認済(17福図第25号))
右図:作成した地図で左図にほぼ対応する箇所

下図に,古地図等より同定した江戸〜明治時代の地図と被害調査結果を重ね合わせたものを示す.先に示した断層に直交する被害の帯の北側は福岡城堀跡と,南側は国体通沿いにあった旧河川と関連性が高いように思われる.特に大名一丁目付近は旧河川が3本に分岐するところであり,地盤が軟弱であった可能性も高い.また堀跡の東側は被害が少ないように思われるが,これはまず堀は明治30年代に東側から埋め立てられ,中堀は大正12年まではその存在が確認できる.この埋め立て時期の違いとともに,東側は商業施設,市役所など大型構造物が林立している地域であり,建設時に地盤の補強がされている可能性もあることが堀跡上の分布に影響を与えていると考える.


(図)被害分布と旧地形との関連性

現在,土木学会・地盤工学会・建築学会などの調査団により市内の詳細な調査が行われており,これら調査結果も踏まえて被害と古地形との対応関係を検討していくつもりである.

玄界島(福岡市西区)


玄界島遠景と港湾部被害

建物・擁壁被害(地盤崩壊に伴う建物被害が多い)

各種石垣(薄い板状の石が積み重なれているものが多い)

玄界小学校の被害状況

玄界中学校の被害状況(構造部には特に大きな損傷は見受けられない)

比較的新しい構造物には特に損傷は見受けられない(全て沿岸部にあったため,地盤崩壊の影響はない)

福岡市その他


埠頭・港湾部の被害

海ノ中道公園部の跨線橋の段差と蒙古塚の墓標の転倒

志賀島西岸部の港湾の被害と鳥居の損傷

志賀島東岸部の土砂崩れ

早良区の被害(駐車場の噴砂跡とシーサイドももち海浜公園の被害(調査時時閉鎖中))

参考文献

・福岡市教育委員会:福岡市埋蔵文化財調査報告書 第237号,293号,463号,498号
・福岡県立図書館蔵:福岡市街地図
・幸左ら:福岡県西方沖地震による建物の被害調査に関する調査報告結果

(文責:高橋